「冷やし中華、はじめました」のような軽いノリで書き出してしまいましたが、縁覚寺にとってはとても重大なご報告です。
鐘楼を解体しました。
2024年の秋季彼岸会の後には、有縁の方々に最後の鐘をついていただく機会を設けさせていただきました。
そして、その年の大晦日から、除夜の鐘は鳴らなくなりました。
このことについて、いつか書かなければと思いながら、ずいぶん時間が経ってしまいました。
決めるまでに何年もかかりましたし、決めた後も、割り切れない気持ちがずっと残っていたからです。
今回はまず、鐘楼解体・除却の経緯をまとめます。
そこから考えたことは、次の記事にまとめるつもりです。
大正に建立され、戦後に運ばれてきた
失ったものについて、できるだけ正確に書いておきたいと思います。
縁覚寺の鐘楼は、大正時代に建立されたものだそうです。
当山はもともと大垣市の本町に寺基がありましたが、太平洋戦争の戦火で本堂が全焼し、昭和36年に現在の安井町へ移転しています。
鐘楼は空襲で焼けることなく残り、移転の際に解体して運ばれ、この土地に建て直されたものでした。
彫刻を手がけたのは、森丹渓さんという彫刻家だと伝わっており、お名前が彫られていることを確認しています。
近江の醒井、現在の滋賀県米原市のご出身で、豊川稲荷の彫刻装飾を手がけたことで知られる方だそうです。
醒井の上丹生という地域は、今も木彫の里として知られています。
そして、鐘楼を支えていた石垣は、大垣城の石垣と出自が同じであることもわかっています。
つまり、けっこうな歴史的価値のある建築物だったということです。
しかし、立派すぎる故の懸念
当山の鐘楼は本堂の大きさや境内地に対して、とても大きく立派でした。
移転前の本堂は、現在よりも大きなものであったため、それに合わせた作りになっていたのだと思います。
紛れもなく自慢の鐘楼だったのですが、一方で長年気にしていたことがあります。
その大きな鐘楼は、通学路に面して建っていたのです。
2018年に、大阪府北部を震源とする大きな地震がありました。
このとき、登校中の小学生がブロック塀の倒壊に巻き込まれて亡くなるという、痛ましい出来事が起きています。
当時、私は震源地の近くに住んでおり、小学生のお子さんが亡くなったのは家の近所でした。
同じようなことが、この場所で起きてはいけない。
我々は、そう考えて、まず境内を囲っていた石塀を撤去し、アルミフェンスに交換しました。
その上で、鐘楼をどうするかを検討してきました。

年に一度のために、どこまでできるか
一時期、耐震補強や建て直しについても検討しました。
しかし、当山で梵鐘をつくのは、大晦日の年に一回だけです。
大晦日の鐘撞きは、大事な行事です。
一年に一度だけ鳴るあの音を、楽しみにしてくださっていた方がいることも知っていますし、何よりも私自身、除夜の鐘は小さい頃から毎年楽しみにしていた行事でした。
それでも、その一回のために多額の費用をかけることが、この寺の将来にとって最善なのか。
最終的には、そうではないという結論になりました。
以前、防犯カメラの記事を書いたときに、「その場を、この先も長きに渡って守り続けていくために、間違いのない寺院経営をしなくてはいけない」というようなことを書きました。
今回の判断は、まさにそこに関わるものでした。
守り続けるための判断が、何かを失う判断でもある。
そういうことが、実際に起こります。
何を残し、何を残さないのか
検討の中心になったのは、住職である父、坊守である母、そして後継者である私の三人です。
同じ話を、何度も何度も繰り返しました。 すぐに意見がそろったわけでもありません。
その上で、総代の皆さまに経緯をご説明し、ご意見を伺いました。
そうして、解体という結論に至りました。
これは、当山にとって極めて重たい判断でした。
歴史的な価値が失われることは、事実です。
除夜の鐘に親しんでくださった方々にとって、思い出の場所が一つ消えたことも、まぎれもない事実です。
何かを途絶えさせた、ということなんだろうと思います。
一方で、鐘楼がなくなっても、縁覚寺という寺の本質は変わらない、とも思いました。
まして、浄土真宗の教えや、仏教の思想・哲学・教義が失われるわけではありません。
けれども、割り切れてはいません。
その割り切れなさを抱えたまま、私は「諸行無常」という言葉について、これまでになく深く考えることになりました。
次の記事では、そのことを書きたいと思います。
