お墓参りの機能を考える

縁覚寺の墓地・納骨堂

縁覚寺では2023年の秋、新たに樹木葬墓地を開設することになりました。
それにあたって「お墓参りとは何なのか?」「お墓参りは我々にどんな体験をもたらすか?」ということを、最近よく考えています。

縁覚寺にも墓地と納骨堂があり、日々沢山の方がお参りに来られます。
当然、私の家のお墓も敷地内にあるのですが、白状するとあまりお墓に向かって手を合わせたことがありません。
ただ、私も親しい人を亡くした経験があるので、亡き人を偲んで手を合わせるということはしたことがあります。
そのようにして、ある人の死別と向き合うという経験を何度かしたことは、自分の人生にとって意味のあることだったと思っています。

この経験の意味をもう少し言語化したくて、思想家の東浩紀さんが編集している「ゲンロン2 慰霊の空間」(2016)という書籍を読み始めました。
そこに自分の考えを整理するのに役立ちそうな記述がありました。

その箇所は、西村明さんの「戦後日本と戦争死者慰霊」(2006)という書籍から引用、紹介されているものでした。 まとめるとこんな感じです。

慰霊には「シズメ」と「フルイ」の2つの側面がある。 「シズメ」は感情を鎮める側面、「フルイ」は感情を奮い立たせる側面である。 シズメとフルイの対比は、悲しみか喜びか、喪失か承認か、遺族か国家かといった感情的あるいはイデオロギーの対立ではなく、過去志向か未来志向かという時間的関係による。 シズメにおいては共同体は過去の死に向かい合う。 フルイにおいては、死を引き受けた上で未来へと歩き出す。 本質的なのは時間的構造である。
– 西村明「戦後日本と戦争死者慰霊」(2006)より要約

よくドラマとか映画でありますよね。
大切な人を殺された主人公が墓前で涙し、悲劇的に命を奪われた人が安らかであることを願う。
そして、復讐を誓ったり、それが果たされたことを報告したりして、「終わったよ…」と新しい一歩を踏み出す。
みたいな場面。
前者は「シズメ」、後者は「フルイ」に該当するのだと思います。

そんな大袈裟な話ではなくとも、我々は墓前や葬儀、法要の席で、亡くなった方への感謝や後悔の念を抱くことがあるはずです。=過去にベクトルが向いた「シズメ」
また、自分がどう生きていくかを省みることもあるのではないでしょうか。=未来にベクトルが向いた「フルイ」

これまでの人生の中で亡き人と対峙した時に、私の身に起こった思考や感情の動きも、そのようなものだっと思います。
そしてそのいずれの側面も、この世を生きる自分にとって重要なことでした。

ということで、あまり浄土真宗的ではない発想なのかもしれませんが、
「縁覚寺として、どのようなお墓や納骨堂の空間を作るのか?」
「お参りくださる方々をどうお迎えするか?」
ということを考えるにあたって、私は慰霊における「シズメ」と「フルイ」という概念を念頭に置くようになりました。
それらがより豊かに喚起される文脈を作るということも、お寺や僧侶の仕事の一つなんだと思います。

お墓参りに限らず、亡くなった方と向き合うことの自己啓発的な側面は、長らく私の関心ごとです。
またこういったテーマで考えをまとめてみたいと思っています。

ではまた次のご縁がありましたら。

縁覚寺の樹木葬墓地についてはこちらから
ぎふ大垣樹木葬
https://www.im-jumokuso.com/place/8846

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